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ただがむしゃらに走り続けてきた10年Vol.5~出会い&覚醒~

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「俺たちちょっと、気合入れすぎたな。」
「ああ。」

二人して、金髪に革ジャンで挑んだ今回の面接。

「だって、ジャージだぞ! 
 高校の体育の授業で着るようなジャージだったぞ!」

「うん。」

「しかも、昼真っから酒呑んでたぞ!」

「呑んでたな。」

「大丈夫かな?」

「大丈夫だ。きっと大丈夫だ。」

「とりあえず、スタジオが楽しみだな。」

「ああ。」

「ロックしか叩きたくない」という男と、新宿で会ったあと、
俺とYOU平は、そんな会話をしながら大塚の自宅へと帰った。

(とりあえず、スタジオですべてがわかる)

数日後、俺たちはスタジオに向かった。

アツシが俺とYOU平に聞いてくる。

「どうだった?どんな人だった?」

「そうだねぇ。緑のジャージを着てたかな。。」

「なにそれ。それだけ?」

「あと、いきなり酒のみはじめた。」

「、、、、、、、、、、。」


スタジオに着くと、すでに緑のジャージの男は、
やはり、緑のジャージを身にまとってスタジオ入りしていた。

「ほんとだ。」


「初めまして。高橋です。」




この男こそ、2002年no_NAMEの後期から
2007年バンキンガール前期まで
ドラムを務めることになる、
「のりちゃん」こと、
「高橋憲史(タカハシ ノリフミ)」であった。



彼の最初のドラムの印象は、非常に丁寧に
基本に忠実に叩くタイプのドラマーで、
特にスネアのリムショットの力強さに
いわゆる「ロック」を感じさせられた。


これまでのY氏とは全くタイプの違うドラマーで、
テクニックよりは、パワーとリズムキープに重点をおき、
アドリブなどはやらず、決めたことをきっちりと
こなす職人肌のドラマーだった。

「セックス・ピストルズ」や「ラモーンズ」をこよなく愛し、
そして、「レッド・ツェッペリン」のドラマー「ジョン・ボーナム」
を崇拝する、なかなか筋金入りの「ロッカー」だった。

俺は、なんだか不思議と初心に戻った気分になり、
この男と俺たちで、新しい音楽をつくっていこうと
心に誓った。

「高橋憲史」(のりちゃん)29歳と11ヶ月。

30歳を目前にして、彼はno_NAMEに加入した。


のりちゃん加入後すぐに、ライブ活動が始まる。

月に1本~2本のブッキングライブ。
週に2回のスタジオ練習。
練習後の大塚のマンションでのバンドミーティング。
スタジオ録音をみんなで聴いて、アレンジを考える日々。

俺とYOU平の共同生活も順調。
すべてが順調に思えた。

が、

そんな生活を繰り返していくうちに、知らず知らずの間に
俺たちは、「ちゃんとやっている」という充実感に安心し、
いつの間にか聴き手のことよりも、自分たちの気持ちよさ
を重視し、楽曲のアレンジにとりつかれていくことになる。


毎回ライブの度に、同じ曲のアレンジが変わっているのだ。
ときには、全く違う曲に聴こえるほど変わることもあった。

毎回スタジオの度に、よくアレンジを持ってきたのは、
YOU平だった。


俺たちは、「とりあえず試す」という暗黙のルールのもと、
YOU平の考えてきたアレンジを幾度となく練習で試した。

1曲のある部分だけを繰り返し繰り返し
やって、3時間のスタジオが終わることもよくあった。

YOU平は、俺と住み始めてから、狂ったようにありとあらゆる
CDを借りてきては、一日中聴いていた。


そして朝までギターをかき鳴らした。


毎日朝までギターをかき鳴らした。


すべてはバンドのために。
バンドの曲のアレンジに活かすために。

上京してくるまで、彼はビジュアル系という狭い枠の中に
身をゆだねてきたのだ。

東京で、俺やY氏といったいわば真逆の音楽人と出会い影響をうけ、
自分の音楽に対する考え方や、
本当にやりたいことを必死で模索していたのだろう。

そんな中、彼は出会ってしまった。



彼をどっぷりと「ロック」の道へと誘ったアーティストに。



27歳でこの世を去った若き天才。
グランジというジャンルを築き上げたモンスターバンド
「ニルヴァーナ」のギターボーカル。



「カート・コバーン」に。



つづく。
 
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ただがむしゃらに走り続けてきた10年Vol.4~Y氏脱退そして~

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東京。

1999年5月、期待と不安を胸にこの地に足を踏み入れた23歳の俺。

右も左もわからぬまま、ただ一人路上でギターをかき鳴らしていた俺に、

また一緒にロックバンドをやろうと誘ってくれたY氏。


思えばY氏とは、14歳からずっと一緒にバンドをやってきた仲だ。

初めて握ったエレキギター、初めて入った音楽スタジオ。
初めて大音量でギターをかき鳴らした時の爽快感。
そんなどのシーンにも、ずっと当たり前のようにそこにいてくれたY氏。

14歳の頃からずっと、俺の背中には、Y氏のビートが刻まれてきたのだ。



2001年12月。


「ウッチマン。俺、バンド辞めようと思う。
今度の福岡の凱旋ライブで最後にしようと思うんだ。」


思いを打ち明けてくれたY氏の表情には、
いつものはにかんだ笑みはなく、真剣そのものだった。


瞬時に俺は、その裏側で悩みに悩んで結論を出した男の
その決意の重さを汲み取った。

「そうか。わかったよ。今までありがとう。」


正直、考え直してほしい気持ちはあったし、
これからもなんとかうまく方法をさがしてやっていけるんじゃ
ないかとも思ったが、当然、同じことをY氏もさんざん考えた
結果、吐き出した結論だ。

それは、俺にY氏からの言葉では言い表せない、
強烈なエールにも感じられた。

(徹底的にやれよ。)



ボーカルギターとしてのゼロからのスタート。
19歳でビジュアル系ロックバンドからの転身、
あたらしい自分を探す、いわばゼロからのスタート。

俺とアツシとYOU平のそんなゼロからのスタートを
Y氏と共にやってこれたことに、心から感謝している。
音楽的にも、人間的にも、本当に優れたアーティストだ。

今現在もこうやって音楽をやっているのも、
Y氏がいなければ考えられない。

本当にありがとう。



2001年12月31日。

福岡ハートビートで行われたカウントダウンライブを
最後に、Y氏はno_NAMEを脱退した。




それから、俺たちはバンド活動をとめてはいけないと、
3人でもライブをやりまくっていこうと、固く誓い、
新年そうそうから、ライブのブッキングを入れ始めた。


そんな時期、俺のバイト先の同僚から耳寄りな情報を得ることができた。

「僕の前のバイト先の先輩で、ロックしかやりたくないっていってる
ドラマーさんがいますよ。」


「ロックしかやりたくない」

なんだかこの言葉にグッときた俺は、すぐさま連絡先をきいて、
その男に連絡した。

「もしもし?Tさんですか?」
「はい。」
「突然、すみません。○○くんから紹介してもらって、
連絡させていただきました。」
「あぁ~、はいはい。」
「今現在、バンドやってます?」
「いや、やってないよ。」
「よかったら一度お会いできませんか??」
「そうだね。その前に、バンドの音源あったら送ってほしいんですけど。」
「ええ、いいですけど、とりあえずお会いできません?」
「うーん。音源送ってほしいなぁ。。」

(これはちょっと軽くあしらわれている気がするな。負けないぞ。)

「いや、とりあえず、会いましょうよ。お願いします。」
「うーん。」
「あって話をしましょう。音源もそのときもって行きますから。」
「うーん。そうだねぇ。うーん。」
「新宿でどうですか?」
「新宿かぁ。うーん。いいけど。」

「よし!じゃあ、早いほうがいいですから、あさってとかどうですか?」

「うーん。わかった。新宿で会いましょう。」

勝った!

と俺は思った。とにかく俺はしつこいのだ。
音源だけ送って俺の思いが伝わるわけないのだ。
会って話しをしないと絶対にだめなんだ。


俺は、その「ロックしか叩きたくない」という頑固そうな
男に会うために、YOU平と二人で新宿に向かった。

もちろんロックの制服「ライダース」の革ジャンを身にまとって。




新宿アルタ前で待っていたその男は、
ジーンズに、緑色に黄色のラインが入ったジャージを羽織っていて、
なんだか拍子抜けした記憶がある。

とりあえず、近くの喫茶店に入った俺たち3人。

「とりあえずビールね。」

その男は、いきなりビールを飲み始めた。
「呑まないの?」

「ええ、まだ、早いかと、、、。」

ひとしきりどんな音楽がやりたいか、
九州から上京してきたことなどを話すと、

「お!九州!?」

「ええ、福岡です。」

「俺、宮崎!いいねぇ!」

勝った!
食いついてきた!

もうここまでくれば、ほぼ8割大丈夫だ。
俺とYOU平は、持ってきた音源をCDウォークマンで
男に聴かせた。


一通り聴いたあと、男はこう言った。


「ぜひ、よろしくお願いします。」



つづく。
 

ただがむしゃらに走り続けてきた10年 Vol.3~YOU平の回~

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同じような質問に、

「ルナシーです。」
「イノランが好きっす。」

アツシと同い年の19歳の少年は俺にこう述べた。

(なんだか陰のある子だなぁ。)

俺の最初の印象はたしかそんな感じだったか。

新宿のスタジオで初めて顔をあわせた4人。

俺、Y氏、アツシ、そして、「YOU平」。

初めて4人で音を出した印象としては、あまり感触はよくなかった。
なんというか、まだ自分を出せていないというか、
まぁ、初めてのスタジオだから緊張していたこともあるだろうが、
YOU平のギターから流れてくるサウンドやリフが、
いわゆる「ビジュアル系」の繊細なクリアーな音で、
マイナーなコードを多用してくるあたりが、俺とY氏の中では
あまりピンとこなかったのだ。

俺とY氏はYOU平について話しながら駅まで向かった。

「どう思う?」
「うーん。。」
「まだわからないよね。」
「うん。まだなんとも言えない。」

たしかそんなやり取りだったと思う。

「でも、アツシはやっぱり、やりやすいんじゃないかな。」

それが決めてだった。

やはり、俺とY氏は長年一緒にやって来ただけあって、
深いところでつながっている空気感があっただろう。

その二人に対して、まだ若いアツシが変な遠慮などをして、
自分を出せないとしたら、すごくもったいないし、
なによりまずは楽しみながらやっていくことが一番だと
俺とY氏は考えたのだ。

「そうだね。アツシもYOU平がいた方が、絶対やりやすい
だろうし、心強いだろうね。」

そして俺たちは正式にYOU平を迎え入れることになった。

山梨県からギターを抱えて上京してきた少年は、
大塚の居酒屋「かるた」というところでバイトを
はじめた。

「かるた」のおやじさんに、まだ住むところが決まっていない旨を
はなすと、心の広いおやじさんは「うちに住めばいい。」
と言ってくれたそうだ。

東京は、あったかいところだ。

俺たちとの出会いは、
少年が「かるた」で寝食を共にし、これからの音楽活動を
どうやっていくか考えている矢先の出来事だったのだ。


まだバンド名が決まらぬまま、俺たちは週に1度のスタジオワークを
続けた。
みんなで曲を持ち寄り、
みんなでスタジオで作り上げていった。
本当に楽しくて、充実した音楽活動だったと思う。
スタジオが終われば、決まって4人で飯を食って帰り、
たわいもない話をして、交流を深めていった。

4人はバンド以外でも頻繁に遊ぶようになっていく。

だって、4人とも上京してきて間もない人間だったから、
バンドメンバーが唯一の友達だったのだ。

お互いの家に遊びに行って、テレビゲームをやったり、
怖いビデオを見ながらギャーギャー騒いだり、
サッカー観戦に行ったり、花見をしたり、呑みにいったり。

ごく普通の若者と何も変わらない、ごく普通の付き合いが
出来ること。
バンドや音楽から離れて、そういう付き合いが出来ること。
これが俺たちにとっては、かけがえのない時間になっていった。

「ライブをやろう」

音楽をやるために上京してきたのだから、当然そういう流れになる。

東京での初ライブだ。

「バンド名はどうする??」
4人でバンド名を決める会議が始まった。

「スペースサモハンキンポルズ」にしようぜ。
Y氏が唐突になんの脈絡もなく、はにかみながら提案してくる。
「じゃあ、maniac mania(マニアックマニア)は??」
「じゃあ、シックサックコックスってのはどう?」
「じゃあ、プリンセス筋肉にしようぜ。略してプリキン。」
次々とY氏が提案してくるのだ。

笑いが絶えない会議だった。

悪乗りをすると、とことん行ってしまう4人だった。
一向に決まらない空気の中、
YOU平がこう言った。

「no_NAME」ってどう?

うん。なんかいいかもって、4人は思った。

ジャンルなどにくくられない音楽をやりたい。
フリースタイルという信念で、今までに聴いたことのないような
音楽をやってみたい。

そんな4人の中で、一番しっくりきたのが「no_NAME」だった。
名前だとか、そんなものはどうでもいい。
聞く人が呼び名をきめればいい。

「no_NAME」にバンド名を決定付けることになった、
アメリカのインディアンの話をYOU平が話し出した。

「インディアンの中で、偉大な人物「グランド・ファーザー」に、
知恵を貸していたという、伝説的な人がいて、その人は、
どの部族にも属さず、ただ一人で森の中で生活していたんだって。
その人物の名前が「ノーネーム」なんだってさ。」

その話を聞いて、「no_NAME」しかないなと、4人は合意した。


バンキンガールの母体となったバンド「no_NAME」の誕生である。


「no_NAME」初ライブとなったのが、原宿ロサンゼルスクラブ。

一日で10バンド出演するという、今考えればひどいイベントだったが、
当時の俺たちには、記念すべき東京初ライブであり、
そしてこれからの長い音楽人生の幕開けでもあった。

第一期no_NAME時代が華々しくスタートしたのだ。
当時のセットリストには、
4人で作り上げた個性豊かな楽曲たちで彩られ、
悪く言えば、何がしたいのかわからないバンドとも言えたかもしれない。

「青い空」(レゲエ調ロックに途中からクラシック乱入!?)
「HERE」(英語詞の激しいロック)
「LOVER IS A DOG」(ファンク)
「ウイスキーボンボン」(ラテン要素の入ったファンク)
「Dread of Dream」(UKロックにラップが乱入!?)
「黒い猫」(ハイスタンダード的ストレートなロック)
「So Sweet」(どブルースに途中からオーケストラ乱入!?)
「Heaven’s Road」(Jロック)
「ぐるぐるまわる」(ジャミロクワイのような曲)
「この空の上で」(ビジュアル系のような曲)
「DADDY」(アツシのスラップ炸裂!)
「階段」(今とは全然ちがうUKロックバージョン)

こんなところで、昔の曲を並べられても、何がなんだかわからない
と思うだろうが、ついつい懐かしくなって書き並べてしまった。。。


第一期no_NAME時代に頻繁にセットリストに入っていった
楽曲は、どれも一筋縄ではいかない、凝ったアレンジで
演者も大変、聴き手もあっけにとられて、キョトンとしてしまいがちな
ものだった。

しかし、ドラムのレベルがかなり高かったために、
バンドとしての存在感と高級感はグッとあがっていたのは
事実だったし、後に、どこのライブハウスにいっても、
オーディションライブは必ず受かって、夜のブッキングへと
たどり着けたのだ。(下北沢シェルターだけは受からなかった)
それだけ、Y氏の存在は大きかった。

初ライブを成功に収めた俺たちは、毎月1回のライブを
やるようになっていく。

このメンバーで2回も、俺とY氏の故郷である福岡で
凱旋ライブもやれたのだ。
西暦2000年の今頃、2001年の今頃。
つまり正月に里帰りするのに、アツシとYOU平にも付き合って
もらって、ライブまでやって、といった感じか。
それほどまでに、俺たち4人は仲がよかったのだ。

東京で最初に住み着いたオンボロアパートも、
もうすぐ更新するか、引っ越すかと、考えていた頃、

YOU平も部屋を探さなきゃと、俺に相談してきた。

いつまでも「かるた」の家族のみなさんにお世話になりっぱなし
じゃいけない、自立しないといけない。
そんな話をしているうちに、俺がこう切り出した。

「じゃあさ、一緒に住むか。そうすれば、いいマンションに
安い負担で住めるぜ。10万から12万のところだって、
二人で割り勘なら可能じゃない??バンドの曲だって作ったら
すぐ二人で確認できるし。何かと便利だと思うよ。」

とにかく俺は、今現在住んでいるアパートから脱出したくて
たまらなかったし、YOU平なら一緒に住めるかもしれないと
思えたのだ。

YOU平は、どこかさっぱりとしていて、男らしく、
若いのに俺に気を使わず、ガンガン自分を出してくる
タイプの男だった。
今思えば、そこまで心を許してくれたことに、俺も何か
応えたいと思っていたのかもしれない。

俺とYOU平は、一緒に部屋を探そうということになり、
アツシとY氏を驚かせた。

俺たちは、大塚に家賃10万円の2DKのマンションを
借りて、生まれて初めての共同生活を始めることになる。

練習スタジオも、今現在も使っている、大塚のオレンジスタジオ
にし、練習後はきまって4人で俺とYOU平の住むマンションで
ミーティングをやるようになった。

バンドがうまく回り始めた。

月に一回のライブでは、もの足りなくなってくるのも当然の流れだった。

そんな時期だろう。

ふつふつとY氏の中で膨らんでいく葛藤。

(自分だけ就職している。ライブは週末じゃないと厳しい。
バンド練習にも仕事で遅れてしまうこともある。
会社の出張で、バンドに迷惑をかけてしまうこともある。
ライブのリハーサルには間に合わないことがほとんどだ。
俺が足を引っ張っているんじゃないだろうか。
ウッチマンは音楽をするために来たのに。
みんな俺に合わせてくれているが、本当はもっとやりたいんじゃ。。。)


きっと、もっともっといろんなことがあったと思うが、
確実にY氏が、たった一人で、誰にも相談できずに
悩み続けてしまったのは、みんなのことが大切だったからだ。

俺たち4人は、兄弟のようになっていた。
本当に仲が良すぎたのだ。

バンドを離れても、一生付き合える友になっていた。
それだけに、Y氏の心の葛藤は、並大抵のものではなかっただろう。


ついに、Y氏が俺だけに心の中の思いを

告げた。


「ウッチマン。俺、バンド辞めようと思う。」


つづく。
 

ただがむしゃらに走り続けてきた10年Vol.2~アツシの回~

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西暦2000年を迎えようと、世の中があわただしくも
何か新しいことが始まるのではと胸を躍らせていた頃、

俺達4人は出会った。


若干19歳の青年の名は「小俣敦」。

育ってきた環境も、聴いてきた音楽も全く違う。

街で会ったら間違いなく道を譲ってしまうであろう
彼のその風貌とは裏腹に

スタジオで奏でる彼のベースの音には、俺とY氏の心を揺さぶる
ロック魂と温かなやさしさが共存していた。

どんな音楽をやってきたの?


俺とY氏の質問に、

彼はこう答えた。

「ビジュアル系っす。」

「ええ!?マジで~!」

「はい。」

「全然想像つかない!じゃあ、化粧とかしてたわけ??」

「バリバリっす。紫の口紅とか塗ってました。」

意外だった。


音楽の好みは自由だし、別にビジュアル系を否定する気も
さらさらなかったが、
間違いなく俺とY氏は通ってこなかったジャンルだった。

それだけに、彼の奏でるベースラインは独特に聞こえたし、
何よりも音の太さに驚かされたのだ。

五臓六腑に響き渡るといった感じか。

だが、不思議とうるさく感じさせない、先にも述べた
「温かさ」が宿っていた。


俺とY氏とS鳥とアツシ。

4人は、ひとしきり音を出し合って意気投合し、4人でバンドを
やろうという結論に達し、新宿を後にした。


この4人のバンドは、一番年上で、音楽的にもキャリアが
あるように思えた「S鳥」がリーダーとなり、
バンド名を「アンドルーズ」に決め、活動を始めることになる。

俺が昔から書きためた曲や、S鳥の完璧に自分の中でイメージが
完成された楽曲を中心に、バンド活動が始まるわけだが、

早くも、俺とY氏はストレスを感じ始めることになる。

すべてがS鳥のイメージに沿うように作られていったからだった。

S鳥氏(呼び捨てはどうかと今思った。。)は人間的にも音楽的にも
よい人だったが、いかんせん俺とY氏の理想のバンド象とはかけ離れた
存在だった。

そう。

みんなで作りたかったのだ。

S鳥氏は、アツシのベースラインもすべて指示し、ドラムやボーカルラインに至るまで、すべてをプロデュースした。

そうなのだ。

バンドマンというよりは、「プロデューサー」だったのだ。


当然長続きはしなかった。

約1~2か月足らずで、「アンドルーズ」は1度もライブをすることなく
解散した。


解散にあたり、アツシはまた一人でやり直すといって去っていこうとした。


しかし、俺は
(この男だけは絶対に手放してはいけない。この男はぜったいに必要な人物だ。)と感じ、
解散後もしつこくアツシに電話でプロポーズをしたのだ。

「小俣くんさぁ、スタジオ練習だけでもいいからさぁ。」

「いやー、別のバンド探します。もう少し重たい感じのロックやりたいんすよねぇ。」

「重たいやつもやろうよ!!とりあえず、次のメンバーが見つかるまでの間だけでもいいからさぁ。スタジオだけでも一緒に入ろうよ。」

このやり取りを数週間、毎日つづけたのだ。

そう。

俺はしつこいのだ。


この俺のあまりのしつこさに、とうとう根をあげたのか、
ついに彼はこう言った。


「じゃあ、とりあえずスタジオってことで。」


それ以来10年間の付き合いだ。

正式にこの日からメンバーね。
みたいなことはなかったから、ひょっとして今現在もサポートの
つもりだったりして。。。(笑)


アンドルーズ解散後、

俺とY氏とアツシの3ピースバンドでしばらくスタジオワーク
を始めることとなった。

幾度もスタジオを共にしていくことで、
だんだんと意気投合していった。

何よりもきっと楽しかったのだろう。

すべてがフリージャムセッションで、のちの楽曲につながる
元ネタがたくさん作られていった。

俺達のスタイルは自由だった。

フリースタイルという言葉が、いつしか俺達の合言葉になっていった。

3人の間で様々な音楽のやり取りが行われていく。

アツシにアシッドジャズや、フュージョン、ファンク、
ソウルといったジャンルを
聴かせたりして、たがいに音楽の幅を広げていった。

特にY氏の音楽に対する幅の広さと、センスはずば抜けていた。

Y氏の持ってくる音楽はかならず後に大ブレークするアーティストが
多かった。
Y氏は先を読む野生の勘みたいなものを持っていたのだろう。

実際、「ジャミロクワイ」に至っては、ブレークする5年も6年も前に、
Y氏から勧められて聴いていた。


この3人のバンドは、Y氏のドラムがずば抜けてレベルが高く、
俺とアツシがY氏に引っ張られて成り立っていた。

Y氏のドラムに関しては、当然、地元九州時代から共にやってきたから
俺とY氏の中では阿吽の呼吸的コンビネーションが知らずに存在して
いたのだろう。

そんなとき、アツシがこう言ってきた。


「実は、俺と昔地元で一緒にバンドやってたギタリストで、
一緒に上京してきたやつがいるんですけど、今度スタジオに
連れてきてもいいっすか??」

当然、俺とY氏は快諾した。

「連れてきなよ!!面白そう!」


その男こそ、バンキンガールの母体となったバンド
「no_NAME」の名づけ親でもあり、数々の名曲を作り出した
天才「YOU平」であった。

「カプリシャス」
「KEEP ROLLING」
「少年少女の言えない事情」
「サイキックビリー」
「BURNING」

no_NAME時代、オーディエンスを圧倒した、他に聴いたことのないような
全く新しいロックサウンドを作り出した男だ。

YOU平と俺は後に一緒に暮らすことになるのだが、
その話はまた次回ということで。



また次回をお楽しみに。

ただがむしゃらに走り続けてきた10年Vol.1~上京&出会い~

ミクシィでの連載が、ちょっとだけ好評みたいなので、
公式HPにも連載させていただきます。



10年前のウッチマン
            10年後のウッチマン


10年前。

ギター1本と野望を抱え、若干23才の青年は東京を目指した。

自分に出来ないものは何もない。

根拠のない自信。

若いときはそれでいい。



23歳の青年は、生まれて初めての一人暮らしをはじめた。

風呂なしのおんぼろアパート。

家賃は3万7千円。

上野から宇都宮高崎線で一駅の「尾久」という町で
東京暮らしが始まった。

隣のオヤジの缶ビールを開ける「プシュ!」という音が、

鮮明に聞こえてくるペラペラの壁。

アンプにつなげていないエレキギターをかき鳴らせば、
「ごつん!」と隣から壁越しに拳が飛んでくる。

上の階の住人は、銭湯で一度も顔を会わせる事はなかった。

流し台で身体を洗っていたのだ。

「ばしゃーん!ジョボボボボッボ!」

上の階から永遠と聞こえてくる大量の水を流す音。

とても眠りにつける状況ではなかった。

それが2年間も続く。

しかも、上の階の住人は、夜中に向かいの一軒家に向かってぶつぶつと、

「何が新婚だバカヤロー」と永遠と愚痴をこぼしていた。

そう。

頭がおかしいのだ。


23歳の青年は、自分のこの部屋を気に入ってはいたものの、

上の住人や隣のおやじの生活音に頭が狂いそうになり、

ただ寝るためだけに帰宅するようになっていった。



青年の朝は早かった。

毎朝6時に起床し、6時半には職場についていた。

下町にある大衆レストラン。

青年はそこの厨房で毎日朝6時半から夕方4時まで働いた。

4時に仕事を終えると、決まって青年は銭湯に向かう。

そこで心と身体をリセットするのだ。

そしてアコースティックギターを抱え、夜の池袋や新宿に出かける。

そう。

ストリートライブだ。

部屋に閉じこもっていても、何も始まらない。
チャンスは自分でつかむのだ。

青年は、東京にきてからの数ヶ月で、
たくさんの曲を作った。

練習もかねて、路上で歌った。

初めて路上をやったのが、新宿の歌舞伎町のど真ん中だった。

世間知らず、怖いもの知らずの青年は、初めての東京でのストリート
ライブでどん底に叩き落された。

やくざまがいのチンピラに、歌ってる最中に譜面台をなぎ倒され、つばをはかれ、「邪魔だぞバカヤロー」

たしかそんなことを言われたのだ。

しかし、悪いことはそれっきりで、後はいい経験をすることになる。


そんな頃、青年が上京したことを聞いた、彼の同級生「Y」から連絡が入る。

Y氏とは九州で一緒に音楽活動をしていた仲だ。

それよりも、中学からの親友といったほうがよいだろう。

「ウッチマン!東京に音楽しにきたっちゃろ??」

Y氏は興奮気味にそう聞いてきた。

そう。


青年とはもちろん、この私「ウッチマン」であります。

ここからは「俺」と書くことにする。


俺は「そうなんよ!音楽をするためにこっちに来たよ!」

とY氏に答えた。

「もしよかったら、一緒にバンドやらん??」
Y氏は俺にこう持ちかけてきた。

もちろん俺は快く快諾した。
なによりもうれしかったし、心強かったのだ。


Y氏は、俺よりも先に就職で東京に来ていた。

当時九州で一緒にバンドをやっていたものの、

Y氏の東京での就職で、九州で組んでいたバンドは、ほぼ「解散」という状態になっていた。

俺はそのバンドでは、「ギタリスト」であって、「ボーカリスト」ではなかった。

当時から「歌いたい」という欲求はあった。

どうせゼロからはじめるなら、いっそ東京ではじめよう。

大学を卒業できるか出来ないかといった状況の中、
俺の進路は、もう「東京で音楽」という方向で固まっていたのだ。

両親にその旨を伝えると、

「大学だけは卒業しなさい。卒業できなかったら行かせない。」

たしかそんな風に言われた気がする。

大学4年の時点で、卒業するために必要な単位が45単位残っていた。

俺は、大学4年になって初めて、毎日学校に通い、授業を受け、
勉強し、55単位履修して55単位きっちりとって、なんとか
大学を卒業したのだ。

今思えば、本当に親不孝者だ。

高い授業料を払ってもらって、遊びほうけて、
挙句の果てに「東京に音楽しにいく!」

こんな馬鹿な話があるか。

親からすれば、「おいおいおいおい!ふざけんなよ。」だ。

「2年間だけ時間をください」

俺は両親にこう告げ、上京したのだ。



俺とY氏は東京でのバンドを組むにあたり、メンバー募集を始めた。

俺がボーカルギター、Y氏がドラム。

後はベーシストだ。

音楽スタジオや楽器屋さん、ありとあらゆるところにメンバー募集の
張り紙をして、連絡を待った。


メンバー募集をして数週間たったある日、

俺の携帯に見知らぬ番号から着信が入ってきた。

「もしもし?」

「あ、内山さんですか?」

「そうです」

「僕はS鳥といいます。ギターやってます。メンバー募集を見て
お電話させていただきました。」

「はい。」

「僕はいま、ベーシストと一緒にメンバーを探しているんです。
内山君はベース募集ですよね?もし3ピースバンドにこだわって
いなかったら、ちょっと会ってお話できませんか?」

もちろん俺は快諾し、新宿でそのS鳥とベーシストと会うことになった。

話をしているうちに、意気投合し、スタジオに入ることになった。

俺とY氏とS鳥とベーシスト。

初めて顔をあわせ、スタジオに入る。

いい感じだった。

俺もY氏も、S鳥よりは、その連れのベーシストに興味を持った。

そのベーシストこそ、バンキンガールの「アツシ」である。



つづく。

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