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ただがむしゃらに走り続けてきた10年 Vol.3~YOU平の回~

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同じような質問に、

「ルナシーです。」
「イノランが好きっす。」

アツシと同い年の19歳の少年は俺にこう述べた。

(なんだか陰のある子だなぁ。)

俺の最初の印象はたしかそんな感じだったか。

新宿のスタジオで初めて顔をあわせた4人。

俺、Y氏、アツシ、そして、「YOU平」。

初めて4人で音を出した印象としては、あまり感触はよくなかった。
なんというか、まだ自分を出せていないというか、
まぁ、初めてのスタジオだから緊張していたこともあるだろうが、
YOU平のギターから流れてくるサウンドやリフが、
いわゆる「ビジュアル系」の繊細なクリアーな音で、
マイナーなコードを多用してくるあたりが、俺とY氏の中では
あまりピンとこなかったのだ。

俺とY氏はYOU平について話しながら駅まで向かった。

「どう思う?」
「うーん。。」
「まだわからないよね。」
「うん。まだなんとも言えない。」

たしかそんなやり取りだったと思う。

「でも、アツシはやっぱり、やりやすいんじゃないかな。」

それが決めてだった。

やはり、俺とY氏は長年一緒にやって来ただけあって、
深いところでつながっている空気感があっただろう。

その二人に対して、まだ若いアツシが変な遠慮などをして、
自分を出せないとしたら、すごくもったいないし、
なによりまずは楽しみながらやっていくことが一番だと
俺とY氏は考えたのだ。

「そうだね。アツシもYOU平がいた方が、絶対やりやすい
だろうし、心強いだろうね。」

そして俺たちは正式にYOU平を迎え入れることになった。

山梨県からギターを抱えて上京してきた少年は、
大塚の居酒屋「かるた」というところでバイトを
はじめた。

「かるた」のおやじさんに、まだ住むところが決まっていない旨を
はなすと、心の広いおやじさんは「うちに住めばいい。」
と言ってくれたそうだ。

東京は、あったかいところだ。

俺たちとの出会いは、
少年が「かるた」で寝食を共にし、これからの音楽活動を
どうやっていくか考えている矢先の出来事だったのだ。


まだバンド名が決まらぬまま、俺たちは週に1度のスタジオワークを
続けた。
みんなで曲を持ち寄り、
みんなでスタジオで作り上げていった。
本当に楽しくて、充実した音楽活動だったと思う。
スタジオが終われば、決まって4人で飯を食って帰り、
たわいもない話をして、交流を深めていった。

4人はバンド以外でも頻繁に遊ぶようになっていく。

だって、4人とも上京してきて間もない人間だったから、
バンドメンバーが唯一の友達だったのだ。

お互いの家に遊びに行って、テレビゲームをやったり、
怖いビデオを見ながらギャーギャー騒いだり、
サッカー観戦に行ったり、花見をしたり、呑みにいったり。

ごく普通の若者と何も変わらない、ごく普通の付き合いが
出来ること。
バンドや音楽から離れて、そういう付き合いが出来ること。
これが俺たちにとっては、かけがえのない時間になっていった。

「ライブをやろう」

音楽をやるために上京してきたのだから、当然そういう流れになる。

東京での初ライブだ。

「バンド名はどうする??」
4人でバンド名を決める会議が始まった。

「スペースサモハンキンポルズ」にしようぜ。
Y氏が唐突になんの脈絡もなく、はにかみながら提案してくる。
「じゃあ、maniac mania(マニアックマニア)は??」
「じゃあ、シックサックコックスってのはどう?」
「じゃあ、プリンセス筋肉にしようぜ。略してプリキン。」
次々とY氏が提案してくるのだ。

笑いが絶えない会議だった。

悪乗りをすると、とことん行ってしまう4人だった。
一向に決まらない空気の中、
YOU平がこう言った。

「no_NAME」ってどう?

うん。なんかいいかもって、4人は思った。

ジャンルなどにくくられない音楽をやりたい。
フリースタイルという信念で、今までに聴いたことのないような
音楽をやってみたい。

そんな4人の中で、一番しっくりきたのが「no_NAME」だった。
名前だとか、そんなものはどうでもいい。
聞く人が呼び名をきめればいい。

「no_NAME」にバンド名を決定付けることになった、
アメリカのインディアンの話をYOU平が話し出した。

「インディアンの中で、偉大な人物「グランド・ファーザー」に、
知恵を貸していたという、伝説的な人がいて、その人は、
どの部族にも属さず、ただ一人で森の中で生活していたんだって。
その人物の名前が「ノーネーム」なんだってさ。」

その話を聞いて、「no_NAME」しかないなと、4人は合意した。


バンキンガールの母体となったバンド「no_NAME」の誕生である。


「no_NAME」初ライブとなったのが、原宿ロサンゼルスクラブ。

一日で10バンド出演するという、今考えればひどいイベントだったが、
当時の俺たちには、記念すべき東京初ライブであり、
そしてこれからの長い音楽人生の幕開けでもあった。

第一期no_NAME時代が華々しくスタートしたのだ。
当時のセットリストには、
4人で作り上げた個性豊かな楽曲たちで彩られ、
悪く言えば、何がしたいのかわからないバンドとも言えたかもしれない。

「青い空」(レゲエ調ロックに途中からクラシック乱入!?)
「HERE」(英語詞の激しいロック)
「LOVER IS A DOG」(ファンク)
「ウイスキーボンボン」(ラテン要素の入ったファンク)
「Dread of Dream」(UKロックにラップが乱入!?)
「黒い猫」(ハイスタンダード的ストレートなロック)
「So Sweet」(どブルースに途中からオーケストラ乱入!?)
「Heaven’s Road」(Jロック)
「ぐるぐるまわる」(ジャミロクワイのような曲)
「この空の上で」(ビジュアル系のような曲)
「DADDY」(アツシのスラップ炸裂!)
「階段」(今とは全然ちがうUKロックバージョン)

こんなところで、昔の曲を並べられても、何がなんだかわからない
と思うだろうが、ついつい懐かしくなって書き並べてしまった。。。


第一期no_NAME時代に頻繁にセットリストに入っていった
楽曲は、どれも一筋縄ではいかない、凝ったアレンジで
演者も大変、聴き手もあっけにとられて、キョトンとしてしまいがちな
ものだった。

しかし、ドラムのレベルがかなり高かったために、
バンドとしての存在感と高級感はグッとあがっていたのは
事実だったし、後に、どこのライブハウスにいっても、
オーディションライブは必ず受かって、夜のブッキングへと
たどり着けたのだ。(下北沢シェルターだけは受からなかった)
それだけ、Y氏の存在は大きかった。

初ライブを成功に収めた俺たちは、毎月1回のライブを
やるようになっていく。

このメンバーで2回も、俺とY氏の故郷である福岡で
凱旋ライブもやれたのだ。
西暦2000年の今頃、2001年の今頃。
つまり正月に里帰りするのに、アツシとYOU平にも付き合って
もらって、ライブまでやって、といった感じか。
それほどまでに、俺たち4人は仲がよかったのだ。

東京で最初に住み着いたオンボロアパートも、
もうすぐ更新するか、引っ越すかと、考えていた頃、

YOU平も部屋を探さなきゃと、俺に相談してきた。

いつまでも「かるた」の家族のみなさんにお世話になりっぱなし
じゃいけない、自立しないといけない。
そんな話をしているうちに、俺がこう切り出した。

「じゃあさ、一緒に住むか。そうすれば、いいマンションに
安い負担で住めるぜ。10万から12万のところだって、
二人で割り勘なら可能じゃない??バンドの曲だって作ったら
すぐ二人で確認できるし。何かと便利だと思うよ。」

とにかく俺は、今現在住んでいるアパートから脱出したくて
たまらなかったし、YOU平なら一緒に住めるかもしれないと
思えたのだ。

YOU平は、どこかさっぱりとしていて、男らしく、
若いのに俺に気を使わず、ガンガン自分を出してくる
タイプの男だった。
今思えば、そこまで心を許してくれたことに、俺も何か
応えたいと思っていたのかもしれない。

俺とYOU平は、一緒に部屋を探そうということになり、
アツシとY氏を驚かせた。

俺たちは、大塚に家賃10万円の2DKのマンションを
借りて、生まれて初めての共同生活を始めることになる。

練習スタジオも、今現在も使っている、大塚のオレンジスタジオ
にし、練習後はきまって4人で俺とYOU平の住むマンションで
ミーティングをやるようになった。

バンドがうまく回り始めた。

月に一回のライブでは、もの足りなくなってくるのも当然の流れだった。

そんな時期だろう。

ふつふつとY氏の中で膨らんでいく葛藤。

(自分だけ就職している。ライブは週末じゃないと厳しい。
バンド練習にも仕事で遅れてしまうこともある。
会社の出張で、バンドに迷惑をかけてしまうこともある。
ライブのリハーサルには間に合わないことがほとんどだ。
俺が足を引っ張っているんじゃないだろうか。
ウッチマンは音楽をするために来たのに。
みんな俺に合わせてくれているが、本当はもっとやりたいんじゃ。。。)


きっと、もっともっといろんなことがあったと思うが、
確実にY氏が、たった一人で、誰にも相談できずに
悩み続けてしまったのは、みんなのことが大切だったからだ。

俺たち4人は、兄弟のようになっていた。
本当に仲が良すぎたのだ。

バンドを離れても、一生付き合える友になっていた。
それだけに、Y氏の心の葛藤は、並大抵のものではなかっただろう。


ついに、Y氏が俺だけに心の中の思いを

告げた。


「ウッチマン。俺、バンド辞めようと思う。」


つづく。
 
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