Kです。
最近、新聞で画家の安野光雅さんが自分史をコラム連載しています。
生い立ちから学生の頃の時代背景、社会に出てからの変遷などを語る連載企画。
始めて、安野さんの顔を写真でみました。
ましてや幼少の家庭環境の話など全然知らず。
彼の個人的な情報、プロフィール、ほとんど知らなかった。
だけど、僕が子供の頃から「ふしぎなえ」「ABCの本」「旅の絵本」や算数系の絵本など身近にたくさんあり、大好きな画家さんでした。
画風や表現している世界観が「安野光雅」という日本名だけど、なぜかヨーロッパの人のイメージが僕にはありました。「小泉八雲=ラフカディオ・ハーン」みたいな感覚。それだけ日本の日常風景から離れた世界がそこにあったのでしょう。
だから、実際に安野さんの顔写真を見、戦時中の生活エピソードを読んだらひどく違和感を感じました。
それでもきっとこれからも安野光雅さんの絵に対する僕の印象や感情は変わらない気がしますし、作品にふれるたびに「あぁ、ヨーロッパの人だよなぁ」と思うことでしょう。
絵画、文学、音楽。
アートの形で表現されたものは、それ自体が持つ表現だけで必要十分な場合が多いのではないかと漠然と思います。
もちろん、その作品を創った人の個人的情報や背景を知ることで、より作品の深いものを知ることができる場合も多いのは承知の上で。
僕が昔から聴いていて、多大なる影響を受けている音楽の中に、演奏者の顔も国籍も場合によっては性別も知らないものがたくさんある。だけど、それらの情報を持っていないことで、音楽的価値が減じられているとはちっとも思わない。
別に現在のネット社会におけるブログなどの極日常的断片情報過多がどうこうとかそういう一石を投じるつもりじゃなくて、、、
芸術表現って不思議だなと改めて実感した、という話でした。
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